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略歴

株式会社 大漁
代表取締役
佐々木豊
Sasaki Yutaka

1946年 東京都江戸川区松江出身
1978年 向島大漁 開店
1989年 株式会社大漁設立
同代表取締役就任
1994年 信濃町大漁 開店

―財界・政界の方から有名スポーツ選手までと、業界を問わず多くの方々が『大漁』を贔屓にされていると伺っています。大将はいつからご自身のお店を持つようになられたのですか?

自分の手で店を切り盛りするようになったのは、昭和47年。下関で修行をして、地元江戸川区松江に戻り、当時寿司屋だった実家をふぐ専門店として再スタートさせたのが始まりなんだ。

―ご実家も料理店を営んでいらっしゃったんですね。

いや、実はもとは自転車屋だったんだよ(笑)。父親が5歳のときに亡くなり、母親が自転車屋で生計を立てながら、子供たちを育てたんだ。その後自転車屋を廃業し、昭和45年から寿司屋を開店したわけ。

―そうでしたか。ご実家が自転車屋でしたのに、どのようなきっかけで料理の道へ進まれたのですか?

料理好きな叔父がこの道へと導いてくれたんだよ。当時叔父は飲食店を経営する企業の幹部で、高校卒業後の進路に ついて僕が迷っていると、「これからは飲食業が盛んな時代になる。そのなかでも高級な寿司がいいんじゃないか」と声をかけてくれて。僕もその気になり、東 京・新宿にある高級な寿司屋で修行させて貰えることになったんだ。

厳しい店ではあったけど、新しいことを学べる環境に刺激を受け、その店では5年間もお世話になったんだ。その後 実家の寿司屋に戻り、従兄と共同経営という形で寿司職人として働き始めたんだけど、当時まだ若かった僕は共同経営というスタイルに馴染めず、何となく居心 地が悪くなっていっちゃったんだ。このまま長くいてもお互いに良い仕事ができないと考えた末、1年も経たないうちに店を出たんだ。

―店を飛び出した後、これからどうしていこうと?

それからがフグだよ。その頃は今のように養殖のフグが無かったから、東京で美味しいフグを食べさせてくれるお店 が少なかった。フグ専門で料理を提供するお店があってもいいんじゃないかと思ったのが下関を目指したきっかけなんだ。思い立ったら即行動だと勢いはあった んだけど、その頃は7月で、まだフグ漁の時期じゃないというのには困っちゃったね(笑)。

多くの人が下関はフグの名産地だと思っているけど、そもそも下関周辺で捕獲されるフグの水揚げ量は少ないんだ よ。多くは東シナ海、黄海、日本海の遠洋から、瀬戸内海など近海で水揚げされ、集積地の下関に漁船で直接運び込まれている。だから、下関には多いのはフグ の加工工場なんだよね。

フグが獲れない時期であれば、当たり前だけど、工場での仕事もない。でも、時期が来るまで何かしなきゃならな い。どうしようかと考えて、福岡や長崎を転々として料理店で修行をさせて貰っていたんだよね。その過程で、いつも手にしている魚をどうやって獲るのか、自 分で魚を獲ってみたいと考えるようになっていったの。魚を下ろした経験はあっても、沖での漁経験が全くなかったからね。

ある日、定置網で迷い込んだ魚を漁獲している様子をテレビで観たんだ。その瞬間にさらに漁への思いが強くなって、思い立ったら行動だと五島列島の大瀬崎に向かったわけ。

―大瀬崎に行かれたのは、どなたかお知り合いの方を頼ってということですか?

いや、知り合いは誰もいかなかったよ。だって、テレビを観ただけで決めたからね(笑)。でも、どうしていいか分 からなかったので、まずは現地の漁業組合を尋ねたんだよ。そうしたら、有難いことに、すぐに漁船に乗せて貰えることになった。しかも、寝泊りは組合の宿直 室を使用してもいいというのでその言葉にすっかり甘えさせていただき、さらには風呂や食事は地元の旅館の方にお世話になっちゃった。人の親切心や温かさに 支えられたんだよね。しかも、どこの馬の骨とも分からない若者を、足でまといだろうけど漁船に乗せてくれて、漁を手伝わせてくれたんだからね。

―生まれて初めて経験された漁師生活はいかがでしたか?

言葉では語り尽くせないほど面白かった。僕の人生のなかで、この五島列島での経験が今の自分の土台になっていると思っているんだ。

大瀬崎の人たちは、昼間はお百姓さんで夜から朝にかけては漁師という、半農半漁の方が多かった。午前4時には沖 に向けて船を出し、魚を獲り、朝食は島で火を起こし、獲った新鮮な魚を食べる。これが本当に旨かったね。で、漁から戻るとみんなは農作業に行くものの、僕 は漁業組合で少しお手伝いをさせて貰う。そして昼頃まで働いて、お土産に頂いた魚を旅館で調理して昼ご飯にする。その後、風呂に入るなどして時間を過ごし て、夕方4時頃に再度海に出て魚を獲る。獲った魚をまたお土産に持たせてくれるから、これがまた夕飯のおかずになる。そして、風呂に入ってまた寝て朝3時 に起きる。こういう生活を1ヵ月半位続けたんだ。

朝起きると、まずはその日の潮の流れを読むんだよ。潮の流れによって、定置網を設置する位置が変わってくるからね。漁師の人たちは、潮に合わせて生活をしているんだってことを初めて知ったんだ。

魚を獲ると言っても、そこには様々な獲り方がある。さし網、定置網、一本釣など、魚の種類によっても獲り方が全く違う。それを身を持って経験させて貰ったことに今でも深く感謝しているんだ。魚を扱う仕事をしている人でも、それを知らない人だっているんだから。

「エンヤートット、エンヤートット」という掛け声があるけど、あれは網を引く際の重要なリズムなんだよ。単に力 任せで網を引っ張ったって上がらない。あのリズムを皆で刻むことで息を合わせ、大きな網を引っ張りあげることができるんだよ。しかも、網は大き過ぎて全部 を船に上げることはできないから、捕えた魚とともに半分を船上に引き上げ、もう半分を海底へ下ろしていく作業を続けるんだ。

網を引き上げている最中には、掛かった魚にも集中しなきゃいけないんだ。生きているフグやタイのような高級な魚 がいるかどうかを瞬時に見極めるためにね。魚もゆっくり泳いでいるわけじゃないから、それは苦労したよ。そして、見つけたらすぐに掬いあげ、船上の水槽の 中で生かしておくんだ。ただ、多くを入れすぎると泳ぎ回る魚同士の体が擦れて傷ついてしまう。傷がつくと市場では価値がないとされるから、加減も重要だっ たね。

こんなことで、漁獲量が多い日には、船に大漁旗を掲げながら戻るんだ。これが島で帰りを待つ人に、遠くから漁の成功を知らせる唯一の方法だった。その当時は携帯電話なんてないから、これが最適だったわけ。

―お話をお聞きしていて、まるで目の前に海が広がっているかと思うほど引き込まれてしまいました。
とても貴重なご経験をされたのですね。

img_taisyo02本当にそう思うよ。こんな経験ができた自分は本当に運がと良かったと思う。 実際に魚を獲っている人たちの気持ちを理解できないと、頭でっかちで生意気なだけの人間になってしまう。この仕事は、魚があってこその商売だし、漁師の方 がいるからこそ包丁が握れる。イワシやアジは、海中で泳いでいる姿はとても美しい魚なんだよ。その生きている命を我々が貰うんだから、値段の高いも安いも ないよね。それを命懸けで獲る人たちがいる。天候が良くて、波もない穏やかな海で大量の魚が獲れるのかといったら、実はそうじゃない。雨の時や時化ている 悪天候でも、獲れる時は獲れる。非常に危険だと分かっているけど、命懸けで捕まえに行くんだよ。

それに比べ、料理人は調理場で死を覚悟することもない。それを考えると、絶対に生産者を大切にしなきゃいけない んだよ。魚だけじゃなく、野菜だって同じだと思う。『生産者に感謝する』って言葉で説明はできても、実際に体験してみないと理解は難しいと思ったから、漁 師の経験は今でも僕の宝だよね。

―五島列島で漁師をご経験された後は、どうされたのですか?

 1ヶ月半ほどして10月に入ったので、いよいよ下関のフグ加工工場で働かせてもらえるようになった。25歳の時だったね。 工場勤務もなかなか面白くて、夜中1時に起床して朝8時まで働き、少し休憩を入れて昼1時から4時まで働くような生活だった。包丁を手に、獲れたフグを右 から左に下ろしていくんだ。とは言っても、フグには毒があるから常に神経を研ぎ澄ませていないといけないから、決して楽な仕事ではなかったよ。毎日10時 間、フグと顔を見合わせる生活だった。 そこでも、とても大事なことを教わったんだよね。それは、フグのオスとメスを瞬時に見極める技。漁から帰ってくる船には、オスとメスが大量に入り混じって いる。下ろす前には、オス・メスを選別しなければならないんだよ。オスには白子、メスには卵巣があって、白子というのは、値段がフグの3倍にもなる。1キ ロが1万円だとすると、白子は3万円もするほど高価なもので、触って指先にあたる感覚で白子か卵巣かを判別するわけなんだよ。それによって値段が決まるか らね。 今は養殖のフグも増えたけど、天然のものは東シナ海まで行くんだよ。しかも、20日から1ヶ月かけないと、フグは獲れない。漁師は1ヶ月近くも家を空け、 命懸けで魚を獲ってくる。万が一、漁船が遭難すれば一家全滅になることもある。でも、それなりに獲れた時にはフグ御殿が建ってしまうぐらいの値段にもな る。さっきも言ったけど、周囲は命懸けで仕事をしている人たちばかりだった。そうやって1年ほど勉強させてもらい、東京に戻ることにしたんだ。

 ―そして、ご実家でフグ専門店を始められたんですね

 僕が戻った当時はまだ寿司屋だったんだ。でも、親戚の資金援助で経営が成り立っている店だったから、以前のように共同経営をしていても絶対に上手くいかな いと思った。そこで、頭を下げて独立させて貰い、何が何でも自分の手で店を守り立てていこうと決意したのが『大漁』の原点。27歳になっていた。

 ―お店の経営は順調でしたか?

 おかげさまで、商売は大繁盛(笑)。もともと地元だったこともあって、「豊が帰って来たぞ」とわざわざ店に知り合いが顔を出してくれたりもして。当時で月 1000万円の売上げがあった。目まぐるしい毎日だったね。しかも、テレビ番組でも紹介される機会があって、益々忙しくなっていったんだよね。余談だけ ど、自分の子供が生まれた年に、1軒ずつ店を増やしていったんだ(笑)。結局、池袋のお店とかは客層が合わずに閉店し、今は向島と信濃町の2店舗だけに なっちゃったけどね。

 ―現在従業員の方は何名いらっしゃるのですか?

 料理人が8名と、30名のパートさん。料理人は勤続20年のベテランから、まだまだ修行中の若い子までいるよ。

 ―財界の方や著名人の接客には、かなり気を遣われるのではないですか?

 お客様が有名かどうか、地位が高いか、ということは関係ないんだよね。来て下さったお客様に喜んで頂くための『目配り・気配 り・思いやり』が大切。何か特別なサービスをするというのではなく、さりげない心遣いができるかどうかなんだよね。 ただ、そのためには、日々勉強する姿勢でいることが大事だと思う。僕自身も、この鍛錬のためにかなりのお金と時間をつぎ込んで、やっとここまで辿り着いた から。 たまに高級な店に足を運んで、隅々まで行き届いたサービスを受けてみるのも手だと思うよ。そうすることで、どうすればお客様に喜んで頂けるかというのを勉 強できるはずだから。 例えば、飲み物ひとつを出すのでも、どのタイミングで出すか、どんな出し方か、どう振舞えばお客様に心地良く感じて頂けるか。また、料理の盛り付けひとつ にしても同じだよ。ほんのちょっとしたことでも、もてなしの心や情緒を感じてもらう。お皿に添える葉っぱでも、外を散歩すればたくさん地面に落ちているで しょう。僕は外を歩くときは、いつも「この葉をどのように添えたら素敵だろうか」ってことにアンテナを張っているんだ。何もしなければ、感性は育たない。 やはり、磨く努力が必要だと思うよ。 これはうちの従業員にも言っているんだけど、高級なものは、高級であるがゆえの手触りだったり、触感だったり、味がある。だけど、その高級なものを経験し たことがなければ、それが高級か、そうでないかも判別がつかない。 おかげ様で、うちを贔屓にして頂いているお客様は、上質なものを良くご存知な方が多い。だからこそ、こちら側も努力しなければいけないね。

 ―開店して35年、料理もさることながら、大将のお人柄が『大漁』の魅力だと感じますが、日々心がけていることを教えていただけますか?

 照れるね(笑)。でも、あえて言うとすれば、どんな人にでも常に正直に、心をオープンにして話をするということかな。正直な方と末永くお付き合いしていき たい、隠し事をするような人とは付き合いにくいとさえ思っているんだ。自分が知っていることをすべて正直に教えるという姿勢でいたい。「人に教えると相手 に真似されてしまうから」と言って教えない人がよくいるけど、いくら教えたってできない人にはできないと思うんだよね、僕は。 知らないことを教えるということは、それが相手にとってもプラスになるはず。だから、僕は惜しみなく教えるようにしたい。それによって、お客様が『大漁』 に来てよかったと思ってくれるなら、それが一番の喜びだからね。

 ―ところで、ご子息も料理人としての道を歩まれているということですが、将来的には大漁を継がせたいとお考えですか?

 それは継いでくれたらもちろん嬉しいよね。手放しで喜んじゃうね(笑)。でも、本人はまだ継ぐ時期ではないと感じているみた いだね。 今は博多にいて、料理人として働き始めて10年になるかな。一旦東京に戻ってこの店で働くようになってしまったら、もう他で働くことは出来なくなる。だか ら、まだまだ他所で力をつけたい、試したいという気持ちの方が強いみたいだよ。全く知らない土地で一から修業をし、やっと若い料理人を育てるような立場に なったようで、成長を実感する毎日が楽しいんだと。 僕は、その息子の意思を尊重したいと思っているんだ。料理人として技術はもちろん大事だけど、人間の機微、人を使うことが実は一番大変なんだよね。相手の 気持ちを理解するためには、やはり色々経験しなければならないよね。 例えば、予約の電話も受けられるし、カウンター越しにお客さんともちょっとした会話ができる。若い人の指導にも当たれるし、従業員ともコミュニケーション がきちんと取れる。ホールが間に合わなければ、ふっと何気なくホールもできる、調理場が間に合わなければ調理もできる。さらにレジもできる。 料理人たるもの、やはり総合芸術だもの。いくら美味しいものを作ったって、作った人のバランスが欠けていたらね。様々なことを経験し、それが確実に自分の ものにできるまでには最低10年はかかるんじゃないかな。 名刺交換をする際でも、社会人歴5年の人と10年の人では、渡し方の深みが違うんだよね。歴の長さから何かそこに温かさが伝わるんじゃないかなと思うんだ よね。 そういう意味で、息子自身が継ぎたいと思えばそうしてほしいし、無理にとは全く思っていなんだよ。

 ―それでは、最後に大将の夢を教えていただけますか?

 10人程度しか入れない店を2人で切り盛りすることかな。これは僕の夢と言うよりも、開店の年に結婚してから、35年間ずっ と『大漁』を支えてくれた女房の夢だけどね。常連のお客様に来ていただき、器や素材にこだわった料理を振舞う。月毎やシーズン毎にテーマを決めたりして ね。例えば、カウンターを舞台に見立ててさ、12月1日から15日は大石忠臣蔵をイメージした料理を出すとかさ。いつか、そんなことができたら楽しいだろ うな(笑)。

※現在大将のご子息は向島大漁店でふぐ料理人として活躍しています。(2011.11.1)